プロテイン


「鍛えないと鈍るよ?」

 麻里はいつも口癖みたいに言っていた。
 長めの髪をぎゅっと縛って、いつも麻里は筋トレをしていた。彼女の髪は本来とってもボリュームがあって、解くととっても柔和な感じになる。勿論、解くと顔も優しげで親しみやすい、可愛い「オンナノコ」の顔になるのに……、麻里はきつくきつく、もしかしたら千切れるんじゃないかって思える位に髪も顔も固めて、毎日筋トレ。そして節度ある食事。
 彼女は大学生ながら、ボディビルダーを目指していた。ボディビル部に憧れの先輩が居て、彼女もまた学生ボディビルダー。だからなんだって。へえ。
 一度その先輩を見た事は有るけど、私と同じ女性ながら、まるで別世界、確かにキレのある身体だったなあ。麻里はああ言うひとに憧れるのか……。

 一方、不摂生であんまりオシャレとかも気にしない、適当でずぼらな私は、前髪だけちょこんと揃えると、あとは割とぼさぼさなミディアムの髪をくしゃっとかいてうわべだけ整えると、適当に着る服を選んで、必要な日数だけ授業に出て、日常に必要な額だけバイトで稼ぎ、帰宅し……、今は講義のレポートをのんべんだらりと書いている。
 麻里はルームメイトの私に気を遣う事もなく、フローリングの床の上で腹筋やら背筋やら鍛え、それでもまだ足りないとばかりにジムに通っては、身体の色々な部分を鍛えてる。普通の女子だったら二の腕が太いと気になるとかお腹周りが、体重が、とか言う話になるけど、そう言う次元に彼女は居ない。もはや別の境地に向かってる。修行僧? と食事の時にからかっても、彼女は黙々と玉子の白身を、ささみを茹でて食べ、バランスの良いサラダやら専用のプロテインを口に入れ、体脂肪率を落とし、筋肉を付けていく。
「麻里は食べないのかい?」
 私が作ったあり合わせの肉野菜炒めと具沢山の豚汁には、ちらっと視線をやったきり、自分で用意した“健康的”な食品を幾つか分量を決め、かじっている。
「これで十分」
「そんなので大丈夫なの?」
 麻里は呆れ顔で私の顔を見て言った。
「なあ横井。こっちが逆に聞きたい。そんな適当な食生活で大丈夫なのかって」
「適当なのが良いんじゃない」
「あっそう。よし食べ終わった。ご馳走様」
 食事と言うより“栄養摂取”の時間を終えた麻里は、暫く休憩……何か筋トレの本を読んでいた……を終えると、部屋の隅に儲けたトレーニング用のスペースで、運動を始めた。いつもの事。私は構わずのんびりと食事を続ける。
 横目でちらっと彼女の引き締まった身体を見る。腕立てに腹筋に、黙々とトレーニングをこなし、じんわりと吹き出る汗。漂う彼女の匂い。換気が悪い部屋の中に籠もりっぱなしだけど、いつの間にか慣れた。どうしてかは私にも分からない。

 その日、私は学食で代わり映えのしないAランチをもさもさと食べていた。
「横井ちゃん、また痩せた?」
 ばったり一緒になった友達からそう聞かれて、私は答えに困った。そんな事ないよと笑って誤魔化したけど、実際何もしてない筈なのに三キロも痩せたのは事実。毎日お風呂上がりに体重計に乗ってるから、分かる。でも痩せる原因が分からない。あんだけ夜更かしして、夜食食べて、間食もして、麻里の残した食事も全部食べてるのに、何で痩せるのか。そう言う体質なのかな。
「横井ちゃん、病気?」
「まさか。病気だったらもっとすごい痩せ方するっしょ。死人みたいな」
「だよね〜。全く羨ましいな、こやつめ」
「ははは」
 友達と笑い合う私を後目に、麻里は一人、ミネラルウォーターと幾つかの固形物を口にすると、さっと席を離れ、何処かへと向かった。どうせまたジムかトレーニングルームと言ったところだろう。そして麻里憧れの先輩と一緒に……。

 私の予想は外れた。
 麻里は私よりも早く帰って来てた。
 部屋の隅で、腹筋をしている……のではなく、膝を抱えたまま、心ここにあらずと言った感じで、ただぼんやりとしていた。
 求道者みたいにストイックだった麻里に何が起きたのだろう?
「ねえ、麻里?」
 私はバッグを玄関に置くと、名を呼んだ。返事が無い。慌てて駆け寄り、目の前で手を振ってみる。反応無し。顔を見る。ぷいと顔を向こうにやる麻里。ぐいっと顎を持って正面に持ってくる。
「痛い痛い痛い」
 麻里は嫌がった。片方の頬が赤い。何があったの。
「どうしたの麻里。ジムは? 今日確か部活のトレーニングの日だよね?」
「帰って来た」
「見れば分かるって。どうしたの。具合でも悪いの?」
「そんなんじゃない」
「じゃあどうしたの」
「ふられた」
「はあ?」
 唐突な答えに、私は言葉を失った。

 ぽつりぽつりと麻里の口から出る単語で、私は全てを悟った。
 結論から言うと、麻里は憧れの先輩に振られたと言うオチ。何故か先輩に引っ叩かれたらしい。一体どんなプロポーズしたの。
 でも、最低限の言葉で表現した後、麻里は膝の間に顔を埋めて、何かを堪えてる様だった。食事も要らない、何もしたくない、大学も休む、暫く部屋に籠もりたいって、どんだけショックだったの……てか、そんなに先輩の事で頭一杯だったなんてね。私もどうして良いか分からない。
 ただ、ボディビルとかに全然興味が無い素人の私にも、分かる事が一つ有った。それは……

「どうして私は横井と一緒にお風呂に入らないといけないんだ」
 久しぶりだねーと笑って、私は麻里の身体を隅から隅まで洗いまくった。
 そう、彼女の匂い。いつもと違っている。普段の鍛えてる彼女の匂いと、落ち込んで元気を失った今の彼女のそれは、全く違う。こんなの、私の好みじゃない。嫌いだ。全部、洗い流してしまえ。
 ざばーっと豪快に風呂桶からお湯をかけ流す。頭から脚の先まで泡だらけだったのを、綺麗サッパリに流して行く。最初は嫌がっていた彼女も、滝行のつもりか観念したのか、ただぼんやりと、私のされるがままに、湯に流されていた。
 ほらほら、と麻里を引っ張って一緒に湯船に。同時に入るのって初めてかも。確かに彼女の身体は引き締まってて、無駄なお肉も無い。でも、今の麻里には何かが足りない。
「横井は良いよなあ……お気楽で」
 口元まで湯に浸かった麻里は、ぼそっと私に言った。
「そうかな」
「たまに、羨ましく見える。今は特に」
「どうして?」
「悩み無さそうだもの」
 思わず苦笑した。そりゃまあ確かに私は俗世間にまみれた女子大生だから、大して興味も無いしこれと言った趣味もないし、能動的に何かするってつもりもない。
 けどね、麻里。
 私が痩せた理由、分かったわ。一緒にお風呂入って、その気持ちは強い想いに変わる。
 胸の鼓動。速くなる。近くに寄れば寄る程。
 ぎゅっと背中に押しつけてみる。
「横井、何だよ。嫌味?」
 麻里は文句を言った。体脂肪を絞っている彼女の胸は大きくない。胸の筋肉は大きいんだけど、その上に有るふたつの乳房が、殆ど無い。一方の私は、人並みに付いている。彼女はそれを羨んだのか。
 ま、気付いてないか。
 いいんだけどね。
「麻里も鍛えないと、鈍るよ?」
 私は悪戯っぽく言った。
「はあ? 何が?」
 聞き返す麻里に何も答えず、私はさっさと風呂を出た。
 麻里の馬鹿。
 鍛えて無くたって、分かるひとにはわかるんだい。健全な肉体に健全な精神がどうのって言うけど、逆も然りじゃない? 麻里は身体に偏り過ぎ。何でも偏るの、良くない。
 なんで私が泣きたくなってるのか分からない。でも、今泣いたところで何も始まらない。そもそも終わってもいないし、始まりもしてない。
 そう。
 私達はこれから。
 そう信じたい。

end

スランプ気味ながらひとつ。
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