その日の夜遅く。
ドアが力なく開いた。
ギギギ、と軋むドアをゆっくり閉めて、彼女はぞんざいに靴を脱ぎ散らかすと、一歩、また一歩とこちらに進んできた。
時計をちらっと見る。ああ、もう結構遅いな。銀、バイト頑張ってたのかな。
彼女はお気に入りのカバンをドサリと足元に置くと、あたしの名を呼んだ。
「由那さんや」
「おかえり、銀。どした?」
あたしは部屋のリビング……と言ってもテレビと座卓置いてカーペット敷いただけの空間だけど……に寝転がりながら、買って来た雑誌を適当にめくりつつ、銀の問い掛けに応じた。
……
……
……
物凄く長い沈黙。自分から話振っといてそれ?
「喋れよ」
思わず身を起こして銀を見る。彼女はぐったりと、座卓の上に肘を付いてあたしを見ている。
「何、どうしたの銀。具合悪いの?」
ずる〜り、とそのまま身体を床に落とす銀。いきなりの予期せぬ動作に、ちょっとひく。本格的に風邪か何かか? あたしは読みかけの雑誌もそのまま放り出すと、銀の足元に駆け寄った。
「ちょ、ちょっと、銀?」
だらしなく床に伸びる銀を抱き起こす。顔を見る。そんなに赤くもないし青くもないし、具合が悪いって訳でもなさそう……
「……ね、ねむい」
ぽつり、と呟く銀。彼女の発した言葉の意味を知り、思わず聞き返す言葉にトゲが出る。
「は?」
銀はそんなあたしにも全然構い無く、目をごしごしと擦り、大きなあくびをした。
「眠いんだよー。助けて由那さん」
あたしは呆れた。
「なら寝ろ」
そのまま銀を床に転がす。ごすっと重い音がした。
「いったーい! そのまま床に落とすフツー?」
「ショックで目が覚めるかと」
「寝ろって言ったじゃーん!」
「言ったけど……銀、今日バイトだったんでしょ?」
「そうだけど」
「そのまま寝て良いの? 結構体とか髪……」
「あーそうだった……ちょっとシャワー浴びてくる」
着替えも持たず、そのままフラフラと浴室に向かう銀。
危なっかしいので、彼女の着替えとバスタオルを用意して……、湯上がりの後多分欲しがるであろう、甘く温かい飲み物(ミルクティー)と、甘いモノ……今日は貰い物のカステラ……を一切れ用意する。そこまでする義理は無いかも知れないけど、一応勝手知ったるルームメイトだし。……なんかあたし日本語おかしいな。
そうこうしているうちに、さっさとシャワーを済ませた銀が出て来た。あたしを見つけるなり、大きめの声で言う。
「ふっかーつ!」
CMでありがちな、目薬点して爽快感ばっちりなポーズを取る。けど……
「してないだろ。目がショボショボだぞ」
「うう……由那さんのいけず」
途端にぐったりポーズの銀。
「ほら、髪ぼさぼさ。雫も垂れてるし、ちゃんと拭く」
「うーん……」
「てか身に付けてるの下着だけっておかしい。ちゃんとパジャマ着ないと」
「まだシャワー浴びたてで温かいから」
「冷えて風邪ひくし。ほら」
だだをこねる銀に無理矢理パジャマを着せる。まったく、幼稚園児か。
あたしがわしわしと髪の毛を拭いていると、銀はテーブルの上に置いてあったミルクティーを見つけた。
「これ、良いの?」
銀の問い掛けに頷いて手を止めると、彼女は香り立つ湯気を満足そうに吸い込み、ふうっと息を吹きかけ、口を付けた。
「ああ、温まるわ。美味しい」
「ついでにカステラも少し食べなよ。何も食べないよりは良いよ」
カステラの載ったケーキ皿を指差す。銀はびっくりして振り返る。
「由那、なんで私が何も食べてないって知ってたの?」
「あんなへろへろで帰って来るって事は、……何年一緒に暮らしてると思ってんの」
「優しいねえ、由那さんは」
「早く食べて、飲んで寝ちゃえ」
「はーい」
もくもくとカステラをつまみ、そしてミルクティーを口にする。
体から立ち上る湯気に混じり、ほのかに香る銀のシャンプーの香り。慣れっこの筈だけど、あたしはこう言う雰囲気に呑まれやすいのか、ちょっと気持ちが揺さぶられる。何やってんだろうね、あたしは。
食べて飲んで一息付いたのか、銀はテーブルの上に肘を載せ、そのまま寝ようとした。
「だーかーらぁ! ちゃんとベッドの上で寝ろと言うに」
「じゃあ連れてって」
「お姫様かよ」
「由那さんの王子さま♪」
「誰がだ」
仕方ない、とばかりに銀を背負い、よいこらしょ、とベッドに向かう。ところが銀は変な体勢でぶら下がっているので、体重の割に妙な負担を強いられる。よろよろと歩き、もう面倒、とばかりに大外刈りの要領でベッドにすぱーんと寝かせた。
「痛っーい! 投げたっしょ今」
「気のせい」
「酷いや由那さん」
わざと泣く真似をする銀を前に、あたしは腰に手を当て、呆れ半分に言った。
「あのさあ……バイトでヘトヘトなのは分かるけど……なんつうか」
「分かってるよ」
妙に冷めた銀の呟きに、心抉られる。
「そんなの、分かってるんだけど」
繰り返される、銀の言葉。
言葉が出てこないあたし。
しばしの沈黙。
銀はそんなあたしの顔色を見たのか、あたしの服の袖を掴んだ。
「由那は詰めが甘いから。だから、もう少しお喋りに付き合ってくれたら、許してあげる」
にやっと笑う銀。
「何だそれ」
呆れるあたし。
「だってー」
「眠いんじゃないの?」
「だって、由那さんがとっても激しいから……あっ嘘です何かその目怖い何かヤな事しようとしてる」
ベッドの上で後ずさる銀を見て、一瞬湧いた怒りもどうでも良くなって、はあ、と溜め息を付く。
「全く……それで、何? 今日は何が有ったの?」
ベッドの傍らに座る。銀は毛布を引き寄せると、ささっと潜り、ひょこっと首を出して、枕に頭を埋め……呟く様に言った。
「いつもと変わらずだよ……また一人辞めて、仕事きつくなってさー」
「そっか」
「私もいつまで持つかなって」
「そんなにきついんだったら、バイト他のにすれば良いのに」
「他になかなか良いの、無くてさ……」
「そっか」
「私居なくても店がまだ大丈夫なのは知ってるんだけど、いきなり辞めても、他の子可愛そうだし……」
「銀はそう言うとこ、割り切れないからなー」
「誰かさんとは違いますから〜」
「うっさい」
「でも、続けられる限り、続けようかなって……」
「銀がそう思うなら」
「由那も、応援してくれるし。……嬉しいよ」
「応援、って程大仰なもんじゃないけどね」
静かに首を振る銀。ちらっとテーブルのティーカップを見て、言った。
「今日のミルクティー、砂糖じゃなくて蜂蜜入れたっしょ」
「うん」
流石は銀、こう言う時でも味覚は鋭い。
銀はぼんやりとあたしを見た後、呟く様に言った。
「どうして?」
「銀が、よく眠れる様にって」
あたしはどう言う顔をして銀に言ったのか自分でも分からない。けど、銀はあたしの顔を見て、満足そうに微笑んだ。
「分かってるなあ……私の事。……だから」
「……ん?」
それっきり、銀からの答えは無かった。
そのまま、目を閉じ、安らかな吐息を立てていた。
今日はよっぽどのハードワークだったんだろうな。まだ乾ききってない彼女の髪を、そっと撫でる。
多分明日の朝「寝ぐせがっ!」とか大騒ぎするんだろうけど、まあそれはそれで、今日はこのまま寝かせてあげよう。
「お休み」
あたしは銀の耳元で囁くと……台所でティーカップとケーキ皿を洗い始めた。
そのままあたしも寝るのも、何か躊躇われるものがあったし……
何だかこうしてないと、もやもやした気分が晴れない事も有って。
しかし、なんでだろう。この気持ち。
……いや、分かってはいるんだけど。何となくは。
でも、言ったらいけない様な気がして。
めんどくさいね、あたしは。
そう自嘲気味にふっと笑うと、片付けを終え、読みかけの雑誌に手を伸ばした。
end
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